自死でわが子を喪った親の集い「あんじゅ」の参加者ブログです

全国自死遺族フォーラム

97日(土)に開催された、全国自死遺族フォーラム。

初参加のあんじゅからは、私を含めて6人が参加をしました。


最初に上智大学の岡教授のお話で始まりました。

次に40年以上もセルフヘルプグループの研究をされていて、国際的権威のトマシーナ・ボークマン博士のご講演がありました。

当事者主導の自助グループは、専門職主導のサポートグループと明確に区別するべきであるとする研究者の一人(プログラムから抜粋)です。

また遺族の声として、山形県立高校在学中の娘さんを亡くして、現在いじめがあったことの事実をしるために裁判中(プログラムより)の渋谷夫妻のお話には、憤りを覚えました。


私の感想はまたの機会にお伝えしたいと思いますが…

田中さんや皆様とのご縁に感謝をいたします。

きゃ~いつもこれで終わってしまう~反省

今日は、当日参加をしたスタッフの感想をお読みください。
コチラ

当日のテーマは、「わかち合いから生まれる“体験的知識”と悲しみについて~自死遺族自助グループ本人の会の考え方」です。



まず、最初に、“かなし”の話が岡和史博士よりありました。

日本語における“かなし”とは、“愛し”であり、“悲し”であり“哀し”であること。

“かなし”とは、「あるものに対する思いが強く、胸に迫るさまを表す。」「現代ではほとんど『悲しい』の意味で用いられるが、上代においては、愛惜にも悲哀使われて、平安時代に及んでいる。『愛し(=いとおしい)』から『悲し』という変遷をたどるのではなく、『愛情』と『悲しみ』の心は根っこのところではつながっている。」(鈴木一雄他編 『全訳読解古語辞典』三省堂)



まず、このお話で心がぐっときました。

そして、講演がスタートしました。

この日のテーマである“体験的知識”というのは、当事者が自助グループの中でわかちあいを通して体験していく知識のこと。それらは、学術的・理論的な知識を主軸とする専門職とは違い、それぞれの体験に基づく、実際的なものであるとのことでした。

体験的知識という言葉と概念は、私は初めて知ることでしたが、トマシーナ・ボークマン博士、岡知史博士のお話は、とても分かりやすく、専門的知識との対比もふまえて、自助グループの意義、役割がとてもよくわかりました。



両博士のお話の中に共通して強調して出てきたことのひとつに、自助グループという概念の定義には、「仲間という原則がある。メンバーは共通して苦悩をもたらす問題状況にある」ということが前提にあるということがありました。

つまり、自助グループの主体は当事者で、体験のないボランティア・専門家など非当事者がはいらないことが原則、それは、時に非当事者の存在がわかち合いの場を乱すことがあること、安心・安全の場を作るためということからでした。

あんじゅでは、私を含めて当事者ではないスタッフが、わかち合いの場に同席していますので、私自身この部分がとても気になりました。

というのは、自分の過去の喪失の経験から、この部分がとてもよく理解できるからです。

でも、そういう体験と思いを持ちながらも、みどりさんに声をかけていただいて、あんじゅの中でわかちあいの場に同席させていただくようになり、感じたてきたことがあります。それは、体験は違えど、悲し=愛しによせる思いはつながること。私たちはわかちあいに同席することはありませんが、同じ場にいさせていただいて、常々それを感じ、そのことが、自らの体験的知識につながっているように感じました。皆様が語られる一言一言には、たくさんの“愛し”がこめられていて、あんじゅはそういう“愛し”にあふれた素晴らしい時間だと、いつも感じています。そして、非当事者である私たちを受け入れてくださっていることにもいつも感謝の思いでいっぱいなのですが、今回のお話を聞いてこの場でそのことをあらためて、お伝えしたく思いました。



そして、講演後の懇親会で、みどりさんがあんじゅの在り方をみなさんに伝えてくださって、周りの方にご理解をいただいたこともお伝えしておきます。



個人的意見ではありますが、非当事者の存在が安心・安全を奪うというのは、人の心の“いとし”“かなし”を理解の浅いボランティア、専門家による関わりの結果だと思います。

社会にある偏見も“いとし”“かなし”の心が欠落した結果のような気がしてなりません。

この“いとし”であり“かなし”の心をわかりあえる人がつながって、輪を広めていくこと、このことこそが、今の日本にとって大事なことで、その心の大切さに気が付いた人が唯一それを変えていくことができる力をもっていると、私は確信しています。

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